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JPフィットネス - ストレングス工房 スタッフブログ

2013年2月アーカイブ

【10】指導者の形:良い指導者/有害な指導者

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 自問自答 :あってはならない指導者の形


『優れた指導者とは如何なるものであろうか?』
と日々の反省とともに、自問自答を繰り返す日々が続く……。

 私の駆け出し時代(今から約25年前)の頃に比べて、今はトレーニングを指導する人が随分と多くなった。多くなった人の数だけ教え方も考え方も違い、指導現場の閉鎖性もあってか、なかなか指導の実態が掴みにくく、試合とは異なり、指導者の優劣はつけ難いのも実情であろう。
 また、選手との相性やトレーニングの合目的性により、その良し悪しは、一律な基準で判別し難いのも事実である。

 選手がチーム練習にプラスして、何かしらのトレーニングを行えば、当然、疲労という現象が現れる。その結果、筋肉や関節にもダメージが蓄積されていき、トレーニングの効果と同時に、そこには『怪我や不調を引き起こす可能性』も常に在ることを認識していなければならない。

 このようなことは、チーム・スタッフであれば、当然認識しており、トレーニングの適量という『さじ加減』の難しいところでもある。そのために、チームにあっては、選手の個人差も考慮に入れながら、監督・コーチやメディカル・スタッフ及びフィットネス・スタッフ、マネージャー等、立場の違う『複数の眼』で選手の状態を見(観・診・看・)ているのである。

 したがって、選手がチームに所属している限り、所属チームでの練習やトレーニング、コンディショニング、ケア活動から切り離された状態で、『specialなトレーニング』だけを秘密に行うこと等は、少なくとも選手のコンディション・アップを考えた場合、特に学生(ジュニア)レベルの選手では有り得ないことである。

 マトモな指導者なら、そういうことが『選手の為』、つまり競技力アップのための『良い準備』にはならないことを分かっている。

 しかるに、近年、とんでもないカリスマ『フィジカル・コーチ』なる人物がいて、選手がチームの一員であることを無視して、とんでもない指導を秘密に施している。
 例えば、『四つ足動物の肉を食うな』等の独善的な指導を行ったり、チームスタッフのやり方を、陰で直接選手に誤りだと言ってみたり、怪我人に対しても独自の判断で、他のスタッフの誰とも連携を取ることなく指導を行う。
 更に、わざわざ選手に対して『何を行ったかは、チームには言うな!』と念を押すに至っては、開いた口が塞がらないとしか言いようがない。

 チームの一員である選手が、チームのルールを遵守することは、当然のことである。
 まだ判断能力の未熟な選手に対して、偏狭で独断的な指導をしたり、平気で他の指導者、監督・コーチを傷つけるような人は、『チームに所属する選手』を指導するということが、基本的なところで分かっていない。
 少なくとも良い指導者ならば、このようなことを行うはずがないのである。

 『誰のためになるのか?』『誰のために行っているのか?』

 この基準は、良い指導者と有害な(無能か有能かは別)指導者を見分ける際の重要なポイントになることは確かである。
 良い指導者とは、自分の都合ではなく、『選手の為になる、選手のポテンシャル向上に役立つ』ことを考える。このことは指導者としての原則であり、基準であり、良識でもあると思う。

 トレーニングの有効性は、『適切なこと(exercise)』を、『適切なタイミングとやり方』で行われた時にこそ、初めて認められるのではないか?
 勿論、簡単なことではない。難しいことであるが故に、プロとして悩み、試行錯誤しながら考え抜き、違う立場の人からのアドバイスも聞き入れながら『適切なタイミングとやり方』を探していくのである。その繰り返しであり、追求であると私は思っている。

 冒頭で述べたように、世の中には、トレーニングを指導する人が大勢いて、考え方や個性の違いから、指導のスタイルや内容は様々で、多岐にわたっている。
 人が評価をし、また目に見えない部分も多いことから、数値化できる科学と違って、白黒をつけることが難しいのも事実である。
 しかし、少なくともその選手の所属するチームのコーチやスタッフを悪し様に非難したり、情報開示やチームスタッフとの連携等とは真逆の秘密主義に徹し、選手のコンディションを損なったり、低下させるような指導には、存在価値はない。

 この尺度は、良い指導者と有害な指導者を見分ける際の重要なポイントであることは確かだと思う。

≪田内 敏男≫

 

【9】『信』の意味するもの

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『信』の意味するもの

 我々の分野においても、何をどう間違ったのか教祖的・カリスマ的な指導者と呼ばれる人がいて、彼等は主に有名トップ選手との関係でマスコミ等に取り上げられることも多く、若い世代の選手を中心に少なからぬ影響を与えている。
しかも、近年、このような人が随分と増えてきたように思う。(私は、まだそのように言われたことはないが……。) 

 仮に、誰をも納得させる凄技の持ち主が現れて、その指導たるや素晴らしいものであったとしても、だからと言って私は、そのカリスマ氏を完全無欠な超人、トレーニングの神様だとは思わない。
 なぜなら、そのカリスマ氏も我々と同じ人間だからである。

 完全無欠な人間など、この世には居ないのだから、その偉大なるカリスマ氏の発する言葉、指導方法の何から何まで全てを一切疑うことなく受け入れてしまう、そういう行き方(生き方)が正しいとは思えないからだ。

■そもそも、スポーツ選手のトレーニングは、信仰で成り立っているものではない。

 なるほど、教える者と教わる者との信頼は大事であり、実際の指導においても『身体は変わるのだ、力は付いてくるのだ』と言うことを『信じなさい』とは言うが、それは『トレーニングの方法論的な意味において、その鍛え方、やり方が、心体に良き変化をもたらす』という事実を『信じよ』という意味である。

 トレーニングにおいて『信』の意味するところは、闇雲な信仰ではなく『信頼』である。

 言い換えれば、選手の指導に当たる我々指導者が、肝に銘じなければならないことは、教祖的なカリスマ氏の言葉を理窟抜きに丸ごと信じるのではなく、『○○の実践したトレーニングが、或はその人の指導したトレーニング方法が、選手の能力、ひいては指導者を向上させることに役立つ』という『事実』を信じるということである。

■確かな鍛練の方法を、合理的なその道筋を我々は信頼する。

 偉大なるカリスマ氏に寄りかかり、すがって頼み込むのではない。
 確かな鍛練の方法、その道筋を『信頼して』自分で身体を動かし、マスターし、鍛えて行くのである。

■自分の考えや知識が充分でない、所謂、分別のない年若い選手に、偏った特殊な価値観を植え付けるような指導を行うと、競技の知的柔軟性が著しく損なわれる。若い選手は、出来るだけ偏りのない世界で、純粋な向上心と知的好奇心を拠り所にして教育訓練すべきであろう。

■人と人の『相互信頼』とは、互いに尊敬し合うことから始まるのではないか?
 指導者と選手の間も『然り』である。
 
 選手は、コーチが自分を伸ばそうとして取り組んでいるその姿勢を見て、コーチ(指導者)を敬うようになる(と信じたい)。
 では、指導者の方はというと、選手の学力や知識の足りなさ、年齢差からくる分別の無さ等を嘆いている方は多い。また、年若く立派な人物、いっぱしの人間に成っている選手は少ないと言うのも実状であるだろう。

■だとしたら、選手の何が尊敬できるのだろうか?

 それは、選手がなりふり構わずに練習やトレーニングに没頭し、専念している、そういう一途な『姿勢』が尊敬に値するのであり、修得した高い技能、あるいは人物そのものに対して、ではないと言うことである。

 『尊敬に値する人物か?』と問われれば、もちろん立派な指導者もおられるが、私も含めて大半の指導者は『?』ではないだろうか。

 選手には頂点を目指す者の心意気がある。一方の我々指導者には、そういう選手を指導しているという心意気がある。そういう心意気と心意気がぶつかり合うと、どうなるか…!!

 したがって、選手と指導者との信頼関係は、試合の結果だけではない。一人の人間と人間、その人間が示す方法、そしてその実践を通して築かれるのであって、極端な言い方をすれば、勝敗は直接的には関係がない。

 敗戦の捉え方、分析、活かし方によっては、『負けてなお深まる信頼関係もある』ことを知るべきである。

■優れた指導方法、exercise、考え方を見聞きする機会は多いが、それらを知るだけでは意味がない。
 
自分の頭で考え、実践しながら感じ取っていく気概があってこそはじめて価値がある。
 選手を取り巻く世の中には、様々なトレーニング法や、指導者が存在するが、トレーニングの意味するところ、つまり本質が分からないと、自分自身の拠り所を決めることもできない。

 それが、私が自分に言い聞かせていることであり、また若い指導者である皆さんに言いたかったことでもある。

≪田内敏男≫