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JPフィットネス - ストレングス工房 スタッフブログ

2010年4月アーカイブ

【8】長所伸展法

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長所伸展法

 人は誰しも自分でも気付かない長所を、納得のいく言葉で指摘され、褒められると、時としてどんな困難にも立ち向かう勇気を持つ程に嬉しくなることがある。
 優れた指導者は、大勢いる選手の一人一人の特性をしっかりと見極め、その長所を見出だし、性格に応じた効率的かつ効果的なトレーニング方法(鍛え方)を指導することが出来る。
 我々は、このような指導者を目指して一歩づつ地道に歩んで行きたいと願っている。

 いくら科学技術が発達しても、人を育て、成長のサポートをするのは、豊かで深い経験を積み、厳しくも温かい眼差しで見つめる指導者の存在である。厳しく指導されながらも、『自分を見ていてくれる人(指導者)がいる』という実感は、指導者のタマゴや選手の精神的成長にとって、何ものにも変えがたいものである。

◆指導者として歳をとることの魅力
 『命長ければ恥多し』という諺があるが、人間誰しも魅力的に歳を取りたいと思うし、歳を重ねるにつれて魅力ある人になりたいと思う。ましてや指導者たる者、そう願わずにはおれないだろう。

 身体が年とともに衰えていくのは避け難いことであるが、身体と同じように心(気力・精神力、感応力)も衰えていくのであろうか? 答えは否、である。
 前回にも述べたとおり、指導者が現場に身を置き、歳を重ねる、つまりチームと共に幾度ものシーズンを送るということは、敗戦や逆境の本質的な苦しみを知ることでもある。
 そういう中で選手が競技者として生活するということは、当然のことながら、好きなことが出来て楽しいというだけで済まされるものではない。大会に向けての練習においては、苦しみの中から前に進む力を、選手同士が切磋琢磨しながら培って行くのであって、そういう選手から指導者が学ぶことも非常に多い。私も多くのものを選手から学び、教えられたと思う。
 どれだけ科学が発達しても、競技スポーツ活動において、選手を指導するトレーナーにあっては、『自分の知力で自分の心を観察する』こと、洞察力、勘を磨くことが基本となる。
 このような意味で、一つの事実や出来事から何かを感じとる力、ちょっとした変化を機敏に察知する力、いわゆる感応力は、私の場合も確かに年と共に少しは磨かれ、鋭くなって来たように思う。

 人の人生と同様に、何年もに渡るチームの浮沈という流れ全体は、実に多くの様々な原因の積み重なりによって決まってくる。したがって、事の成り行きや実情というものをよく知らない者で、なおかつチームに直接関係しない者が、そのチームの勝ち・敗けを、軽々しく分かったように説明することなど出来るわけがない。
 勝敗は、才能や努力だけで決するものではない。偶然の巡り会わせに大きく左右されることもある。それは個々の人生を振り返れば自ずと分かることであろう。
 したがって、勝ち・負けや成功・失敗の理由は、厳密に言えば、それぞれにおいて全部違うものである。それを何でもかんでも、例えば『負けたのは、俺の言ううことを聞かなかったせい』とは、不合理極まりないばかりか、事実にも反することである。
 他チームの敗戦や失敗を軽々しく扱う者を愚か者と言う。同様に、過去の経験や失敗に学ばない者も愚か者である。
 
チームに属する我々スタッフが為すべきことは、他のチームの敗戦(失敗)の解説ではなく、自チームの現在の姿を正しく方向づけていくことなのである。

 自分の都合のよい勝手なものの見方を捨て、勝敗、チームの浮沈、選手の成長・伸び悩みという現実の有り様を客観的かつ的確に把握できる心(澄んだ眼)を養わなければならない。
 難しい道のりであるが、指導者として現場に立つ限り、その生涯をかけて心掛け、目指すべき点である。

 私自身の目標としたい。

 日頃の鍛練の成果が、試合という表現の場で実を結ぶことを祈りつつ…。 

≪田内敏男≫

【7】劣等感との付き合い方

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劣等感との付き合い方(スキル)

 『優れた人を見習い、敬いながら、その一方で劣る自分を反省する』ということは、反省するが故に、ひどく落ち込んで、どこまでも沈んでいくことではない。
 劣等感(コンプレックス)をバネにするとは、至らぬ自分を分かること、すなわち、その謙虚さが向上心に火を付ける。そういう方向へもって行く、自らを駆り立てることを言う。
 選手に対しても、指導者に対しても言えることは、人よりも劣っていること、あるいは劣っていると感じることは、少しも恥じることではないし、心配することでもない。
 一番いけないのは、傲慢になって学ぼうとしなくなることであり、ひたむきな努力をしなくなることだ。それを阻止してくれるのが劣等感であり『向上心に火を付ける導火線の役割を果たすもの』として積極的に捉えておきたい。

◇例:傲慢
 あなたの周りに次のような”優れた”人はいないだろうか?
 口を開けば、自分はこの世界では、日本で何本の指に入る、やれ東京ではナンバー○?だとか、独善的な自己評価と自慢話だけに終始し、更には勝敗にまつわる本質を見通す洞察力もなければ、勝敗のギリギリの淵から生まれる他者(敗者)に対する深い優しさも備わっておらず、徒に歳を重ねただけ・・・・・・。これでは、あまりにも虚しく、何の役にも立たないどころか、ズバリ、存在そのものが迷惑である。本人のためにも、周りの人のためにも、直ぐにでも隠退した方がいい。

◇例:伝統がないコンプレックス
 例えば、伝統も実績も無いに等しいチームは、当然のように、そのことが、選手に劣等感を抱かせる方向に行ってしまうことがよく見受けられる。
 一方、長い伝統を持ち、数々の栄光に支えられながらながら、その伝統ゆえに、かえって、がんじがらめの堅苦しい生気のない集団となってしまった伝統チームも存在する。
 このような場合は、あらゆる意味で、先ず組織の風通しをよくすることから始めなければならないのであるが、伝統がないチームは、初めから風通しが良いことが多いのである。
 将に、ここからがスタートである。
(伝統がなく、風通しも悪いようでは、チーム強化の見込みは、見えてこない!)

◇例:議論に弱いコンプレックス
 『言葉の暴力は愚か者の証である』と叱られたことがある。議論において、舌鋒鋭く相手をやり込めることは、ある種の快感であろうが、やられた方は、たまったものではない。
 論破する快感も悪いとは思わないが、言葉というものは、それが過ぎると往々にして「暴力」と化し、人の心をいたく傷つける。
 巧みな言葉使いや論理展開の鋭さで、「してやったり!」と得意満面になるのはいいが、気を付けていないと、その後にくるのは、思い上がりと油断である。むしろ、往々にして、やり込められた人の粘り強さ、諦めない精神、結果で示そうとする執念の方が怖いのである。

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◎例:上手くしゃべれないコンプレックス(口下手のセールスマンの場合)
 閑話休題 
 ここで、スポーツ以外の例を紹介しておきましょう。
 テレビショッピングに出てくる人のように、流ちょうに商品の説明が出来ないセールスマンが、いかにして売り上げナンバー・ワンになったか?
 職業選択のミス、と言ってしまっては身も蓋もありません。彼は何かの事情でセールスマンになってしまったのです。それも含めて、悩みに悩み抜いたあげく、彼は上手くしゃべって説明することを捨て、自分から話し出すのをやめて、先ずは相手のの話をじっくり聞くこと、つまり「聞き上手」に徹することから始めました。そして、自分が知り抜いた好きな商品だけに扱うものを絞り込み、相手の求めに応じて売ることに決めたそうです。
 聞き上手に磨きをかけたお陰で、「買うならあなたからだ」と客の方から言わせ、商品の説明に入る時には、既に相手の気持ちや希望が分かっているので、心のこもった「下手なしゃべり方」でお客さんの求める商品を不器用に勧め、契約をドンドン取っていったそうです。
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◆強い組織(チーム)
 強い組織(チーム)は、生き甲斐を持った人に支えられている。
 生き甲斐とは、各個人の心の問題であり、他人や組織から強要されるものではない。
 生き甲斐とは、そもそも『力強く生きていこう』という思いを支えるバックボーンであり、寄り処である。
 
チームという組織に生きる選手が、個人の問題である生き甲斐、すなわち競技を行うこと、競技者であることに生き甲斐と誇りを持って、長所を伸ばし、短所・弱点(コンプレックス)を克服しようと一心に練習に打ち込んでいるならば、これほど心強いことはない。

 向上心の陰に劣等感あり! それで、いいではないか!?
 敗戦や失敗、それに劣等感は、スタートのきっかけであることを知って欲しい。
 
新たな出発のきっかけであることを・・・・・・。

 日頃の鍛練の成果が、試合という表現の場で実を結ぶことを祈りつつ…。 

≪田内敏男≫

【6】精神集中:瞑想

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精神集中:瞑想の効用

 瞑想により智恵を生み出し、それによって自己の『心を改良』していく。
はたして、そんなことが我々に可能なのであろうか?

 以前、何かの本で読んだ記憶によれば、瞑想の『瞑』とは、種々雑多な我々の心に巣くっている雑念=不安、心配、こだわり…等を取り除き、消し去ること。
瞑想の『想』とは、文字どおり想うこと、つまり、強い想いを、繰り返し、繰り返し念じる(想念)こと。それこそ、毎回、毎回、『入念』に行うのである。

 これは、あたかも良い(プラス)言葉も悪い(マイナス)言葉も、未整理状態のまま、乱雑にビッシリと書かかれたホワイトボードが在って(我々の心の状態)、これらの文字を、一旦、全部消し去ってしまう作業が『瞑』と言ってもよいだろう。
 消されて真っ白になった心のホワイトボードに、夢を想い描きながら、希望に満ち、不安や心配ごとを吹き飛ばすような力強い言葉やフレーズを丹念に大胆に書き込んでいくことが『想』である。

 瞑想を習慣とし、繰り返し、繰り返し行っていくと、普段とは違う、極度に集中した瞬間を、程度の差こそあれ、誰もが体験することができる。

◆猛練習の意味
 さて、ここで話題を『練習・訓練・鍛練』に振ってみよう。
 選手の特性をよく見極め、考えぬかれた練習、広い意味で訓練や鍛練(トレーニング)は、それが質的に優れ、ハードであればあるほど、その強烈な体験が、普段の生活、練習では体験できない激しい精神の覚醒をもたらし、並外れた精神集中へのキッカケをつくることが知られている。
 つまり、技の修得、もしくは修得した技術の運用・発揮の巧みさの訓練から入って、体力的な疲弊状態がもたらされ、それに耐えながら、あるいは忘れて技能修得訓練に没頭していく。そして、それによってもたらされる研ぎ澄まされた感覚、つまり『並外れた精神集中の境地』へ。
 これこそ猛練習の意味であって、あくまでも質的なアプローチ、選手の内面の変化に着目したアプローチでなければ意味がない。

 やるからには必ず成し遂げねばならないという、この強烈な想いと、何が有ろうと、何が起ころうと、絶対に…という覚悟こそが、チャンピオン・スポーツの原動力である。
それが、選手を厳しい練習、烈しいトレーニングに駆り立てるのである。
 一方、勝つためには、どうすればよいか?
 グランドや体育館を離れても、必死に考え、念を凝らす。
 ここで、練習と瞑想が一つになるのである。

心・技・体:三位一体
 以上で述べてきたよう、サクセス・ストーリーを実現していくためには、しっかりとした技能修得、体力の養成、そして揺るぎない精神力の陶冶が不可欠である。

 大会に向け練習に明け暮れる選手に、我々がただただ願うことは、勝利へと向かう心の充実感、高揚感、すなわち気力・体力の充実と技能の向上しかない。
 あらゆるプレッシャーを全身全霊で受け止め、これまで培ってきた技を伸び伸びと発揮してもらいたい。

 日頃の鍛練の成果が、試合という表現の場で実を結ぶことを祈りつつ…。

≪田内敏男≫

【5】歳を重ねること

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◆攻守の両面

 試合という闘いの連続であるシーズンは、不安や心配との闘いでもある。
試合において攻守の両面があるように、個々の心の問題においても、目標を掲げて万難を排し、それに向かって心を駆り立てていくこと(攻め)と、不安や恐怖、心配から心を守ること、この両方が必要であり、非常に大切なことである。

◆指導者として歳を取るということ

 当然のことながら、乗り切ったシーズンの数だけ、『勝ち・負け』を経験しているということであり、またその数だけ引退者を見送り、新人を迎えてきたと言うことでもある。
 私も含め、ほとんどの指導者にとっては、勝った喜びよりも、敗北の悔しさ、苦悩(心配・不安)の方が遥かに多いのも事実であると思う。

 体育会系=タテ社会の悪しき伝統と言われる『絶対的な年功序列』のように、単に年上であること、つまり、ただ歳を重ねた指導者が無条件に立派なのではなく、チームの浮沈、人との別れと出会い、勝敗における苦悩…等を真っ正面から受け、勝負の世界で生きる辛さを知り、その辛さと共に生きる中で、真の喜びと悲しみ、感謝といたわりの念、慈愛のこころ、智恵の意味を本当に理解していく。そういう年長者、年寄りこそが立派なのであり、何も悟り澄ましたエライ人である必要は全くない。
 それどころか、幾多の敗北にもめげず、ひたすら『勝つ方法』、『強くする方法、原理・原則』を求めて、迷い悩み、もがきながら、逆境を跳ね返し、少しでも前へ進もうとしているその姿は、未熟者であり、求道者の姿でもある。

 そういう意味で、指導者として年輪を重ねることは、これらの苦悩を感じ取る力が、精神的な何かを研ぎ、磨いていくのだろう。
『歳を重ねることそのものが、指導者としての修行なのである』と、言われる由縁である。

 五十歳を越えた今、自らへの戒めとして、日々、心に刻んでおきたい。

 日頃の鍛練の成果が、試合という表現の場で実を結ぶことを祈りつつ。

≪田内敏男≫