JPフィットネス・ストレングス工房
03-3239-8511
JPフィットネス - ストレングス工房 スタッフブログ

【15:最終回】 始まりの風/新たな連載スタートへ

| | コメント(0) | トラックバック(0)

 壁を越え、ひとつの段階をクリアするには、地味な練習・トレーニング(研修)の積み重ねしか道がないことを、私はこの仕事を通して学んだ。

 新たに始める連載では、私が仕事として行ってきた『筋力トレーニング(ウェイト・トレーニング』と、それに纏わる話を、ひたすら書いていこうと思う。それが私の存在意義?だと思うようになったからである。
 存在意義などと大袈裟なものが有るのか?と言われそうだが、有るのか無いのか、分からなくても、とにかく自分のやってきたことを書いていくことが、還暦を前にした自分の勤めだと思うのである。

 我々の立場は、スポーツ科学を軸として、理科系、文化系に関係なく、また西洋スポーツから中国や日本(中国)の武術に至るまで、全く異なる分野の知見を噛み合わせていくというもので、今は、その作業の途上に他ならない。
 役割の違う他の領域の人を、先入観や偏見を排して、素直に、そして敬意を持って評価することは、決して簡単なことではないが、各々の専門領域や役割を越えて、幅の広い見方を身につけるためには、重要な条件であると思う。

 トレーニング方法、鍛練法の科学性を考える時、私は自然科学のように数値化できることよりも、数字では表し難いが、しっかりと理論的に説明できること、実践して証明できることに、我々が行っていることの合理性が在ると思っている。
 これまで、筋力トレーニングは、経験論的に語られることが多く、それ故に誤解も生まれたように思うのだが、私自身は、常に『実践を重んじる経験的な解釈を重視しながらも、科学的視点で筋力トレーニングとそれを行う人間、集団(組織)を見直すこと』を心掛けてきたつもりである。
 そう言う意味でも、いわゆる『ウェイト(トレーニング)否定論』はじめ、様々な批判についても、真っ向から取り上げて、丹念に検証していくつもりである。

 私が書くこの連載は、教室での授業ではないのだから、単に書籍に書いてあるexercise(実技)を紹介し、骨格筋を中心とした人体の機能・構造(スポーツ生理学的な知見)を説明しただけでは意味がないと思う。
 選手や若い指導者の方法論的な支えとなり、考え方(心)の拠り所となる、普遍的な話まで中身を拡充できるかどうか、そこに重点を置き、それにチャレンジしていきたいと願っている。

 筋力トレーニングは、私の人生を変えたと言える。
 これは、『筋トレ指導を仕事にした』ということではなく、筋力トレーニングで私自身が変わった、と言うことである。

 筋力トレーニングには、それを指導する人(指導者)にも、実践する人(選手、実践者)にも、『現状打破、変えうる力』を持っていることを分かってもらいたい。
 この拙文によって、志ある若い読者の方々に、『なるほど、我々の考え方、指導法とは、こういうものであったか』と理解し、何か一つでも多くのことを、自分のものにして頂ければ、筆者として無上の喜びである。

≪田内敏男≫

【14】才能、努力、根性が全てか??

| | コメント(0) | トラックバック(0)

 どんなに強い意志とやる気があっても、その世界でモノになるのとならないのとでは、その間には大きな境界線がある。
 これまで私は、それを乗り越えるのと越えられないのとでは、本人の意志(やる気)や根性が大きく左右するものだ、と思っていた。

信念、忍耐力(精神力)、理性、努力、根性……。

 だが、今思うにそれだけなら、今頃私は『モノ』にはなっていなかったと思う。ましてや、私にはそういうものが、それほど有るとは思えない。
 今の私がいっぱしの『モノ』になったと言えるかどうかはともかくとして、少なくとも25年以上もの間、この仕事をやってこれなかったであろう、と確信している。

 決して良いことばかりとは言えない『あの頃』の『あの環境』があったからであり、要所要所で導いてくれる指導者(師、先達)がいたからであり、ともすれば立ち止まろうとするの私の背中を押してくれる人(理解者)が居たからであり、試行錯誤する私を見守り続けてくれた家族がいたからである。
 そういう人がいるかいないか、それに左右される場合の方が多いのではないだろうか…?


『いっぱしのモノ』になった人間が決してエライわけではない。
止まるべき時に止めてくれる人がいて、躊躇せずに進むべき時に背中を押してくれる人がいた。切磋琢磨するライバル(仲間)がいて、迷える時に目指すべき方向に導いてくれる人がいた。

 様々なハードルを越えることができた人には、そういう人がいて、越えられなかった人にはいなかった。或は、そういう存在の人が居るにも拘わらず、気付かずにいた。ただそれだけの違いではないか、と思えるのである。

 もちろん、運や出会いも非常に大切であるが、それらも根本は、その人に付いてくるもの、呼び込むものだと言うことが歳と共におぼろ気ながら分かってきた。

 この地球の、この国の、あの両親の元に生まれて育ち、あの学校、あのチームに鍛えられ、そして今日、この環境、この人達に取り囲まれて日々、歩んでいることを想うと、自ずと感謝の気持ちが涌いてくる。

 人生には、あたかも選手に不調や怪我が付きものであるように、自信喪失や挫折が付きものである。
 そんな時に大切なのは、現実をあるがままに受け入れること。そして『その次』に対する心構え、気持ちではないだろうか?

 諦めたら、それで終りである。一歩、また一歩、自分に与えられたこの道に感謝し、躓き、迷い、悩みながらも、可能性を信じて歩んで行きたいと思う。

≪田内敏男≫

【13】負けてなお深まる信頼関係(監督論)

| | コメント(0) | トラックバック(0)

 このコーナーの第9回で、試合に『負けてなお深まる信頼関係もある』と言うことを書いたが、『本当ですか?』、『理想論、絵空事ではないのか?』といった質問や感想を頂いた。

 それらに対する答えになっているかどうかは分からないが、以下、実話を交えて書く。

 『毎日僅ずつでも前に進んでいる』という充実感、確かな手応えとして感じ取れる『勝利への予感』が、日々厳しい練習に取り組む選手やスタッフの心の支えになる。
 しかしながら、初優勝を狙うチームでは、時としてそれが揺らぐことがある。
 つまり、『初優勝を狙う』とは、当然のことながら過去に優勝経験がないということなので、『勝利への予感』を感じながらも、時にはそれがあやふやになってしまったり、何かの拍子に揺らいでしまうことがある。

 このようなことは、ある意味、避け得ないものであるが、そういう時こそ、ブレず、揺るがず、変わらぬ姿勢を貫き通すのがチームの中心である監督であり、事実、その通りに貫き通して見事、初の頂点に立った監督(複数)が、私の身近には確かにいるのである。

 見方によっては、一見単調ではあるが、『誠実で真摯な姿勢で練習に明け暮れる毎日』こそが、何ものにも変えがたく、決して揺らぐことのない、最も頼りになる拠り所となると言うことを、良き指導者(監督)は、看破し、自らもそれをブレずに実践しているからこそ、幾つものハードル(問題)を越えることが出来たのではないか?!

■敗戦の苦しみを真っ正面から受け止め、それを自覚すること。それが次なる勝利への第一歩である。
『運が悪かっただけだ』とか、『天候が悪かったせいだ』とか、『たまたま怪我人が多くて…』とか、敗因を何かのせいにして、敗戦の苦しみを自覚しない者、負けた相手から学ばない者には、将来の勝利はない。

■信頼関係を築くことは、何れの世界においても容易ならざることであるが、敗戦を真っ正面から受け止める監督は、自分が率いるチームは『監督の器以上には勝てない』ことを知っており、それ故に、敗戦の責任を一身に背負い、他のコーチやスタッフ、ましてや選手のせいにすることなど、絶対にない。有り得ないのである。
 したがって、このような監督に率いられたチームでは、試合の結果に関係なく、即ち、たとえ試合(決勝戦)に負けたとしても、かえって深まる信頼関係というものが在ることを、スタッフも選手も『その時』に知るのである。

 『人生は出会いだ』とよく言われる。

 よきチームとの出会いを!

≪田内 敏男≫

【12】解決しない解決法

| | コメント(0) | トラックバック(0)

解決しない』解決法
~瞑想の効用:続き~


『今ある苦悩や問題点を嘆くなかれ!』と自分に言い聞かせている。
 
やるしかないのだ。進むしかないのだ。嘆いたり愚痴ったりしている暇があったら、対策を考える、身体を動かす、人と会って前向きな話をする、姿勢を正して沈志黙考、瞑想すること。
 
そして笑って笑って、元気に日常を送ることだ!

 三食の恵みに感謝し、通勤途中に季節の移り変わりはを感じては、
過ぎし日の成功と挫折に想いを馳せていると、自然の営みの中で生かされている自分に気付かされる。
 
このような状態になると、不思議なことに問題を問題としたまま受け入れ、客観的に眺められるようになり、問題そのものが消えてしまう?ことが往々にしてあるものだ。
 
年長者の知恵と言うか、若い人から見ればズルさと映るかも知れないが、問題を解決するのは、自分の頭、『自分からの働きかけから』だけではない、と言うことを体験的に知っているのだ。
 偶然や運の力も含めて、季節と同じように周囲の状況も変化する。
往々にして相手の方も変わることだってありうるのだ。

 万策尽きたと諦めて投げ出してしまっては、それまでだが、
時には何もせずに『瞑想』することが重要と頭の隅に置いておいてもらいたい。
 瞑想しながら過去を振り返る、じっとして今の自分を、他人が見るように観察する。その時、対策を練ってはいけない。感情を入れてはいけない。善悪の評価をしないように注意する。自分の身の回りで起こったこと、自分の心の変化を、ただただ静かに見つめる、観察すること。
 そういう時間を、1日のうちで必ず持つようにすることだ。

『こんなことで何かが変わるのだろうか?』
 最初は何も変わらない!
 ところが、暫く続けていると、体調の変化に気付く。
不思議なことに良くなってくるのだ。
 更に続けていると……!

 ジタバタしても始まらないし、嘆き愚痴っていても、
どうにもならない。
 
時には『解決しないことも解決だ』と決める、肝を括ることこそ、解決するための糸口なのだと気付くべきであろう。

 解決するための糸口となるものは、非常にシンプルな言葉、ちょっとした一言にある場合が多い。

 難解な書物にではなく、日頃慣れ親しんだ、例えば聖書、仏典、論語などは勿論のこと、諺の中にも、そして皆さんの座右の書にも、きっとシンプルな解決へのヒントが溢れていると思う。

 心して愛読書、座右の銘と対峙し、瞑想する習慣を築きたいものである。

≪田内 敏男≫

【11】精神集中

| | コメント(0) | トラックバック(0)

精神集中

 心にもエネルギーを充填し、『ストレスをなくして1つのことに集中しなさい』とか、『余計なことを考えず、試合および試合の準備に集中しなさい』と、いつの頃からか選手は幾度となく言われてきたことと思う。
 しかしながら、我々凡人に、そんなことが簡単に出来るのだろうか?

 精神集中、それは目標に向かって突き進む人に本来そなわったもの、即ち本能的な行動なのかも知れない。それが発想力や智恵を産み出す源であると言われている。

 スポーツだけではなく、科学・技術、学問・芸術やビジネスの世界に至るまで、他に優れて並外れた業績は、『常人が及びもつかない程に精神を集中し、失敗を重ねながら、考えに考え抜いた結晶=閃き』から生み出されたものだとも言われている!?

■精神集中の第一歩となるのが、日常の訓練、すなわち『1つのことを徹底的に考えること、考えぬく習慣』を築くこと。

■次に、1日に1回は瞑想する習慣をつくることだ。

 瞑想において自己を観つめる際には、通常の観察眼ではなく、精神を集中することによって産み出された『気付く力』で、自分の心を観察するのだと、自分に言い聞かせること。
 喜怒哀楽といった感情を抑え、静かに腰を据えて一点に心を絞り込む。そうすると、ダラダラした散漫な日常生活からでは決して得られない『特別に強力な知性(気づく力)』が心の中に生まれてきて、物事の本質が見えてくる、と言われている。

 私は瞑想や呼吸法を主として仏教から学んでいるが、釈迦は『自分というものの本当の姿を知りたければ、集中した精神の力を使うべし』と説いている。
 精神を集中(瞑想)した時に得られる冴えた思考力(智恵)が、物事の筋道や道理が少しずつ分かるようにしてくれる、と言うのである。
 自分の狭い了見に気付かせ、凝り固まった硬い頭を解し、利害関係から遠ざけ…等、そういった新たな視点から観ることによって、人間の行いと、現在およびその先の状況が少しずつ分かってくるのである。

■選手は、鍛え上げた身体と身に付けたパワーを、ある時は自信に変え、ある時は直接ぶつけ合い、またある時は、パワーアップした身体で意識的にリラクゼーション(力みを取る=脱力)、つまりギリギリの緊張感の中での『居直り的リラックス』をし、思い切って競技(試合)に臨むのであるが、試合の土壇場で必要なのは、鍛え上げた『技(スキル)』と抜いた『力』、つまり無意識で自然な頭と身体の動きである。

 過大評価も過小評価もない、それだけがトレーニングが我々にもらたしてくれるものの『在るがままの姿』ではないか?

 我々が選手に教えることができるのは、将にこの点である。

■心の平静を刺激して動揺させる原因は、選手の身の回りには無限にある。

 不安やあがり、恐怖、それに得たいの知れない想像を絶するプレッシャーなど…。
 我が身に襲いかかる、それらの刺激そのものを消すことなど、到底できないから、それを受け止める個々の心、心の仕組み・構造を、練習・トレーニング、日常生活を通して、改良・改変し、強化して慣れさせるしかない。

 意(意識の力)を用いてプレッシャーの状況をイメージし、身体を鍛え、『その状況下で発揮できる技』を身に付けて行かなければ、到底ビッグ・イベント(試合)では通用しないのである。

 以上のように、身体を鍛え上げること、その鍛え上げた身体をリラックスさせ、心(頭)が冴えきった状態を保つことの重要性は、選手にだけ言えることではない。
 指導者にとっても極めて重要なことであり、指導者こそ日々の鍛練が必要であることを、改めて肝に銘じておきたい。

≪田内 敏男≫

【10】指導者の形:良い指導者/有害な指導者

| | コメント(0) | トラックバック(0)

 自問自答 :あってはならない指導者の形


『優れた指導者とは如何なるものであろうか?』
と日々の反省とともに、自問自答を繰り返す日々が続く……。

 私の駆け出し時代(今から約25年前)の頃に比べて、今はトレーニングを指導する人が随分と多くなった。多くなった人の数だけ教え方も考え方も違い、指導現場の閉鎖性もあってか、なかなか指導の実態が掴みにくく、試合とは異なり、指導者の優劣はつけ難いのも実情であろう。
 また、選手との相性やトレーニングの合目的性により、その良し悪しは、一律な基準で判別し難いのも事実である。

 選手がチーム練習にプラスして、何かしらのトレーニングを行えば、当然、疲労という現象が現れる。その結果、筋肉や関節にもダメージが蓄積されていき、トレーニングの効果と同時に、そこには『怪我や不調を引き起こす可能性』も常に在ることを認識していなければならない。

 このようなことは、チーム・スタッフであれば、当然認識しており、トレーニングの適量という『さじ加減』の難しいところでもある。そのために、チームにあっては、選手の個人差も考慮に入れながら、監督・コーチやメディカル・スタッフ及びフィットネス・スタッフ、マネージャー等、立場の違う『複数の眼』で選手の状態を見(観・診・看・)ているのである。

 したがって、選手がチームに所属している限り、所属チームでの練習やトレーニング、コンディショニング、ケア活動から切り離された状態で、『specialなトレーニング』だけを秘密に行うこと等は、少なくとも選手のコンディション・アップを考えた場合、特に学生(ジュニア)レベルの選手では有り得ないことである。

 マトモな指導者なら、そういうことが『選手の為』、つまり競技力アップのための『良い準備』にはならないことを分かっている。

 しかるに、近年、とんでもないカリスマ『フィジカル・コーチ』なる人物がいて、選手がチームの一員であることを無視して、とんでもない指導を秘密に施している。
 例えば、『四つ足動物の肉を食うな』等の独善的な指導を行ったり、チームスタッフのやり方を、陰で直接選手に誤りだと言ってみたり、怪我人に対しても独自の判断で、他のスタッフの誰とも連携を取ることなく指導を行う。
 更に、わざわざ選手に対して『何を行ったかは、チームには言うな!』と念を押すに至っては、開いた口が塞がらないとしか言いようがない。

 チームの一員である選手が、チームのルールを遵守することは、当然のことである。
 まだ判断能力の未熟な選手に対して、偏狭で独断的な指導をしたり、平気で他の指導者、監督・コーチを傷つけるような人は、『チームに所属する選手』を指導するということが、基本的なところで分かっていない。
 少なくとも良い指導者ならば、このようなことを行うはずがないのである。

 『誰のためになるのか?』『誰のために行っているのか?』

 この基準は、良い指導者と有害な(無能か有能かは別)指導者を見分ける際の重要なポイントになることは確かである。
 良い指導者とは、自分の都合ではなく、『選手の為になる、選手のポテンシャル向上に役立つ』ことを考える。このことは指導者としての原則であり、基準であり、良識でもあると思う。

 トレーニングの有効性は、『適切なこと(exercise)』を、『適切なタイミングとやり方』で行われた時にこそ、初めて認められるのではないか?
 勿論、簡単なことではない。難しいことであるが故に、プロとして悩み、試行錯誤しながら考え抜き、違う立場の人からのアドバイスも聞き入れながら『適切なタイミングとやり方』を探していくのである。その繰り返しであり、追求であると私は思っている。

 冒頭で述べたように、世の中には、トレーニングを指導する人が大勢いて、考え方や個性の違いから、指導のスタイルや内容は様々で、多岐にわたっている。
 人が評価をし、また目に見えない部分も多いことから、数値化できる科学と違って、白黒をつけることが難しいのも事実である。
 しかし、少なくともその選手の所属するチームのコーチやスタッフを悪し様に非難したり、情報開示やチームスタッフとの連携等とは真逆の秘密主義に徹し、選手のコンディションを損なったり、低下させるような指導には、存在価値はない。

 この尺度は、良い指導者と有害な指導者を見分ける際の重要なポイントであることは確かだと思う。

≪田内 敏男≫

 

【9】『信』の意味するもの

| | コメント(0) | トラックバック(0)

『信』の意味するもの

 我々の分野においても、何をどう間違ったのか教祖的・カリスマ的な指導者と呼ばれる人がいて、彼等は主に有名トップ選手との関係でマスコミ等に取り上げられることも多く、若い世代の選手を中心に少なからぬ影響を与えている。
しかも、近年、このような人が随分と増えてきたように思う。(私は、まだそのように言われたことはないが……。) 

 仮に、誰をも納得させる凄技の持ち主が現れて、その指導たるや素晴らしいものであったとしても、だからと言って私は、そのカリスマ氏を完全無欠な超人、トレーニングの神様だとは思わない。
 なぜなら、そのカリスマ氏も我々と同じ人間だからである。

 完全無欠な人間など、この世には居ないのだから、その偉大なるカリスマ氏の発する言葉、指導方法の何から何まで全てを一切疑うことなく受け入れてしまう、そういう行き方(生き方)が正しいとは思えないからだ。

■そもそも、スポーツ選手のトレーニングは、信仰で成り立っているものではない。

 なるほど、教える者と教わる者との信頼は大事であり、実際の指導においても『身体は変わるのだ、力は付いてくるのだ』と言うことを『信じなさい』とは言うが、それは『トレーニングの方法論的な意味において、その鍛え方、やり方が、心体に良き変化をもたらす』という事実を『信じよ』という意味である。

 トレーニングにおいて『信』の意味するところは、闇雲な信仰ではなく『信頼』である。

 言い換えれば、選手の指導に当たる我々指導者が、肝に銘じなければならないことは、教祖的なカリスマ氏の言葉を理窟抜きに丸ごと信じるのではなく、『○○の実践したトレーニングが、或はその人の指導したトレーニング方法が、選手の能力、ひいては指導者を向上させることに役立つ』という『事実』を信じるということである。

■確かな鍛練の方法を、合理的なその道筋を我々は信頼する。

 偉大なるカリスマ氏に寄りかかり、すがって頼み込むのではない。
 確かな鍛練の方法、その道筋を『信頼して』自分で身体を動かし、マスターし、鍛えて行くのである。

■自分の考えや知識が充分でない、所謂、分別のない年若い選手に、偏った特殊な価値観を植え付けるような指導を行うと、競技の知的柔軟性が著しく損なわれる。若い選手は、出来るだけ偏りのない世界で、純粋な向上心と知的好奇心を拠り所にして教育訓練すべきであろう。

■人と人の『相互信頼』とは、互いに尊敬し合うことから始まるのではないか?
 指導者と選手の間も『然り』である。
 
 選手は、コーチが自分を伸ばそうとして取り組んでいるその姿勢を見て、コーチ(指導者)を敬うようになる(と信じたい)。
 では、指導者の方はというと、選手の学力や知識の足りなさ、年齢差からくる分別の無さ等を嘆いている方は多い。また、年若く立派な人物、いっぱしの人間に成っている選手は少ないと言うのも実状であるだろう。

■だとしたら、選手の何が尊敬できるのだろうか?

 それは、選手がなりふり構わずに練習やトレーニングに没頭し、専念している、そういう一途な『姿勢』が尊敬に値するのであり、修得した高い技能、あるいは人物そのものに対して、ではないと言うことである。

 『尊敬に値する人物か?』と問われれば、もちろん立派な指導者もおられるが、私も含めて大半の指導者は『?』ではないだろうか。

 選手には頂点を目指す者の心意気がある。一方の我々指導者には、そういう選手を指導しているという心意気がある。そういう心意気と心意気がぶつかり合うと、どうなるか…!!

 したがって、選手と指導者との信頼関係は、試合の結果だけではない。一人の人間と人間、その人間が示す方法、そしてその実践を通して築かれるのであって、極端な言い方をすれば、勝敗は直接的には関係がない。

 敗戦の捉え方、分析、活かし方によっては、『負けてなお深まる信頼関係もある』ことを知るべきである。

■優れた指導方法、exercise、考え方を見聞きする機会は多いが、それらを知るだけでは意味がない。
 
自分の頭で考え、実践しながら感じ取っていく気概があってこそはじめて価値がある。
 選手を取り巻く世の中には、様々なトレーニング法や、指導者が存在するが、トレーニングの意味するところ、つまり本質が分からないと、自分自身の拠り所を決めることもできない。

 それが、私が自分に言い聞かせていることであり、また若い指導者である皆さんに言いたかったことでもある。

≪田内敏男≫

【8】長所伸展法

| | コメント(0) | トラックバック(0)

長所伸展法

 人は誰しも自分でも気付かない長所を、納得のいく言葉で指摘され、褒められると、時としてどんな困難にも立ち向かう勇気を持つ程に嬉しくなることがある。
 優れた指導者は、大勢いる選手の一人一人の特性をしっかりと見極め、その長所を見出だし、性格に応じた効率的かつ効果的なトレーニング方法(鍛え方)を指導することが出来る。
 我々は、このような指導者を目指して一歩づつ地道に歩んで行きたいと願っている。

 いくら科学技術が発達しても、人を育て、成長のサポートをするのは、豊かで深い経験を積み、厳しくも温かい眼差しで見つめる指導者の存在である。厳しく指導されながらも、『自分を見ていてくれる人(指導者)がいる』という実感は、指導者のタマゴや選手の精神的成長にとって、何ものにも変えがたいものである。

◆指導者として歳をとることの魅力
 『命長ければ恥多し』という諺があるが、人間誰しも魅力的に歳を取りたいと思うし、歳を重ねるにつれて魅力ある人になりたいと思う。ましてや指導者たる者、そう願わずにはおれないだろう。

 身体が年とともに衰えていくのは避け難いことであるが、身体と同じように心(気力・精神力、感応力)も衰えていくのであろうか? 答えは否、である。
 前回にも述べたとおり、指導者が現場に身を置き、歳を重ねる、つまりチームと共に幾度ものシーズンを送るということは、敗戦や逆境の本質的な苦しみを知ることでもある。
 そういう中で選手が競技者として生活するということは、当然のことながら、好きなことが出来て楽しいというだけで済まされるものではない。大会に向けての練習においては、苦しみの中から前に進む力を、選手同士が切磋琢磨しながら培って行くのであって、そういう選手から指導者が学ぶことも非常に多い。私も多くのものを選手から学び、教えられたと思う。
 どれだけ科学が発達しても、競技スポーツ活動において、選手を指導するトレーナーにあっては、『自分の知力で自分の心を観察する』こと、洞察力、勘を磨くことが基本となる。
 このような意味で、一つの事実や出来事から何かを感じとる力、ちょっとした変化を機敏に察知する力、いわゆる感応力は、私の場合も確かに年と共に少しは磨かれ、鋭くなって来たように思う。

 人の人生と同様に、何年もに渡るチームの浮沈という流れ全体は、実に多くの様々な原因の積み重なりによって決まってくる。したがって、事の成り行きや実情というものをよく知らない者で、なおかつチームに直接関係しない者が、そのチームの勝ち・敗けを、軽々しく分かったように説明することなど出来るわけがない。
 勝敗は、才能や努力だけで決するものではない。偶然の巡り会わせに大きく左右されることもある。それは個々の人生を振り返れば自ずと分かることであろう。
 したがって、勝ち・負けや成功・失敗の理由は、厳密に言えば、それぞれにおいて全部違うものである。それを何でもかんでも、例えば『負けたのは、俺の言ううことを聞かなかったせい』とは、不合理極まりないばかりか、事実にも反することである。
 他チームの敗戦や失敗を軽々しく扱う者を愚か者と言う。同様に、過去の経験や失敗に学ばない者も愚か者である。
 
チームに属する我々スタッフが為すべきことは、他のチームの敗戦(失敗)の解説ではなく、自チームの現在の姿を正しく方向づけていくことなのである。

 自分の都合のよい勝手なものの見方を捨て、勝敗、チームの浮沈、選手の成長・伸び悩みという現実の有り様を客観的かつ的確に把握できる心(澄んだ眼)を養わなければならない。
 難しい道のりであるが、指導者として現場に立つ限り、その生涯をかけて心掛け、目指すべき点である。

 私自身の目標としたい。

 日頃の鍛練の成果が、試合という表現の場で実を結ぶことを祈りつつ…。 

≪田内敏男≫

【7】劣等感との付き合い方

| | コメント(0) | トラックバック(0)

劣等感との付き合い方(スキル)

 『優れた人を見習い、敬いながら、その一方で劣る自分を反省する』ということは、反省するが故に、ひどく落ち込んで、どこまでも沈んでいくことではない。
 劣等感(コンプレックス)をバネにするとは、至らぬ自分を分かること、すなわち、その謙虚さが向上心に火を付ける。そういう方向へもって行く、自らを駆り立てることを言う。
 選手に対しても、指導者に対しても言えることは、人よりも劣っていること、あるいは劣っていると感じることは、少しも恥じることではないし、心配することでもない。
 一番いけないのは、傲慢になって学ぼうとしなくなることであり、ひたむきな努力をしなくなることだ。それを阻止してくれるのが劣等感であり『向上心に火を付ける導火線の役割を果たすもの』として積極的に捉えておきたい。

◇例:傲慢
 あなたの周りに次のような”優れた”人はいないだろうか?
 口を開けば、自分はこの世界では、日本で何本の指に入る、やれ東京ではナンバー○?だとか、独善的な自己評価と自慢話だけに終始し、更には勝敗にまつわる本質を見通す洞察力もなければ、勝敗のギリギリの淵から生まれる他者(敗者)に対する深い優しさも備わっておらず、徒に歳を重ねただけ・・・・・・。これでは、あまりにも虚しく、何の役にも立たないどころか、ズバリ、存在そのものが迷惑である。本人のためにも、周りの人のためにも、直ぐにでも隠退した方がいい。

◇例:伝統がないコンプレックス
 例えば、伝統も実績も無いに等しいチームは、当然のように、そのことが、選手に劣等感を抱かせる方向に行ってしまうことがよく見受けられる。
 一方、長い伝統を持ち、数々の栄光に支えられながらながら、その伝統ゆえに、かえって、がんじがらめの堅苦しい生気のない集団となってしまった伝統チームも存在する。
 このような場合は、あらゆる意味で、先ず組織の風通しをよくすることから始めなければならないのであるが、伝統がないチームは、初めから風通しが良いことが多いのである。
 将に、ここからがスタートである。
(伝統がなく、風通しも悪いようでは、チーム強化の見込みは、見えてこない!)

◇例:議論に弱いコンプレックス
 『言葉の暴力は愚か者の証である』と叱られたことがある。議論において、舌鋒鋭く相手をやり込めることは、ある種の快感であろうが、やられた方は、たまったものではない。
 論破する快感も悪いとは思わないが、言葉というものは、それが過ぎると往々にして「暴力」と化し、人の心をいたく傷つける。
 巧みな言葉使いや論理展開の鋭さで、「してやったり!」と得意満面になるのはいいが、気を付けていないと、その後にくるのは、思い上がりと油断である。むしろ、往々にして、やり込められた人の粘り強さ、諦めない精神、結果で示そうとする執念の方が怖いのである。

--------------------------------
◎例:上手くしゃべれないコンプレックス(口下手のセールスマンの場合)
 閑話休題 
 ここで、スポーツ以外の例を紹介しておきましょう。
 テレビショッピングに出てくる人のように、流ちょうに商品の説明が出来ないセールスマンが、いかにして売り上げナンバー・ワンになったか?
 職業選択のミス、と言ってしまっては身も蓋もありません。彼は何かの事情でセールスマンになってしまったのです。それも含めて、悩みに悩み抜いたあげく、彼は上手くしゃべって説明することを捨て、自分から話し出すのをやめて、先ずは相手のの話をじっくり聞くこと、つまり「聞き上手」に徹することから始めました。そして、自分が知り抜いた好きな商品だけに扱うものを絞り込み、相手の求めに応じて売ることに決めたそうです。
 聞き上手に磨きをかけたお陰で、「買うならあなたからだ」と客の方から言わせ、商品の説明に入る時には、既に相手の気持ちや希望が分かっているので、心のこもった「下手なしゃべり方」でお客さんの求める商品を不器用に勧め、契約をドンドン取っていったそうです。
--------------------------------

◆強い組織(チーム)
 強い組織(チーム)は、生き甲斐を持った人に支えられている。
 生き甲斐とは、各個人の心の問題であり、他人や組織から強要されるものではない。
 生き甲斐とは、そもそも『力強く生きていこう』という思いを支えるバックボーンであり、寄り処である。
 
チームという組織に生きる選手が、個人の問題である生き甲斐、すなわち競技を行うこと、競技者であることに生き甲斐と誇りを持って、長所を伸ばし、短所・弱点(コンプレックス)を克服しようと一心に練習に打ち込んでいるならば、これほど心強いことはない。

 向上心の陰に劣等感あり! それで、いいではないか!?
 敗戦や失敗、それに劣等感は、スタートのきっかけであることを知って欲しい。
 
新たな出発のきっかけであることを・・・・・・。

 日頃の鍛練の成果が、試合という表現の場で実を結ぶことを祈りつつ…。 

≪田内敏男≫

【6】精神集中:瞑想

| | コメント(0) | トラックバック(0)

精神集中:瞑想の効用

 瞑想により智恵を生み出し、それによって自己の『心を改良』していく。
はたして、そんなことが我々に可能なのであろうか?

 以前、何かの本で読んだ記憶によれば、瞑想の『瞑』とは、種々雑多な我々の心に巣くっている雑念=不安、心配、こだわり…等を取り除き、消し去ること。
瞑想の『想』とは、文字どおり想うこと、つまり、強い想いを、繰り返し、繰り返し念じる(想念)こと。それこそ、毎回、毎回、『入念』に行うのである。

 これは、あたかも良い(プラス)言葉も悪い(マイナス)言葉も、未整理状態のまま、乱雑にビッシリと書かかれたホワイトボードが在って(我々の心の状態)、これらの文字を、一旦、全部消し去ってしまう作業が『瞑』と言ってもよいだろう。
 消されて真っ白になった心のホワイトボードに、夢を想い描きながら、希望に満ち、不安や心配ごとを吹き飛ばすような力強い言葉やフレーズを丹念に大胆に書き込んでいくことが『想』である。

 瞑想を習慣とし、繰り返し、繰り返し行っていくと、普段とは違う、極度に集中した瞬間を、程度の差こそあれ、誰もが体験することができる。

◆猛練習の意味
 さて、ここで話題を『練習・訓練・鍛練』に振ってみよう。
 選手の特性をよく見極め、考えぬかれた練習、広い意味で訓練や鍛練(トレーニング)は、それが質的に優れ、ハードであればあるほど、その強烈な体験が、普段の生活、練習では体験できない激しい精神の覚醒をもたらし、並外れた精神集中へのキッカケをつくることが知られている。
 つまり、技の修得、もしくは修得した技術の運用・発揮の巧みさの訓練から入って、体力的な疲弊状態がもたらされ、それに耐えながら、あるいは忘れて技能修得訓練に没頭していく。そして、それによってもたらされる研ぎ澄まされた感覚、つまり『並外れた精神集中の境地』へ。
 これこそ猛練習の意味であって、あくまでも質的なアプローチ、選手の内面の変化に着目したアプローチでなければ意味がない。

 やるからには必ず成し遂げねばならないという、この強烈な想いと、何が有ろうと、何が起ころうと、絶対に…という覚悟こそが、チャンピオン・スポーツの原動力である。
それが、選手を厳しい練習、烈しいトレーニングに駆り立てるのである。
 一方、勝つためには、どうすればよいか?
 グランドや体育館を離れても、必死に考え、念を凝らす。
 ここで、練習と瞑想が一つになるのである。

心・技・体:三位一体
 以上で述べてきたよう、サクセス・ストーリーを実現していくためには、しっかりとした技能修得、体力の養成、そして揺るぎない精神力の陶冶が不可欠である。

 大会に向け練習に明け暮れる選手に、我々がただただ願うことは、勝利へと向かう心の充実感、高揚感、すなわち気力・体力の充実と技能の向上しかない。
 あらゆるプレッシャーを全身全霊で受け止め、これまで培ってきた技を伸び伸びと発揮してもらいたい。

 日頃の鍛練の成果が、試合という表現の場で実を結ぶことを祈りつつ…。

≪田内敏男≫

JPF動画